岩村城から車で北へ約10分、バス停の名前にもなっている「希菴橋」
名前の元である「
希菴禅師」は織田信長の焼き討ちに合いながらも「心頭滅却すれば火もまた涼し」を唱えた快川国師と並び、臨済宗二大徳と称される人物でした。
「女城主」の時代、岩村城は武田信玄配下の秋山信友(虎繁)に攻められ信友が城主になり女城主と秋山は政略結婚をします。
そしてその2年後には織田信長の軍に攻められ信友と女城主は処刑されます。
希菴禅師はこの信友軍が侵攻した直後に殺され、その地が「希菴橋」として残っています。
(理由は信玄の招集を何度も断ったとも、信玄が病気であると知っていたから口封じのためとも言われています)
橋より西へ徒歩10分、右手の丘には彼を祀った「希菴塚」も。
希菴禅師が最後に住職として入っていた大円寺は、この時信友軍により焼かれてしまいます。
現在は礎石のみ残り、石碑や看板がその場所を伝えています。
敷地内の出土品は岩村の資料館に保存されているようです。
発掘場所を示す看板。
岩村城下町すぐ近く、
大将陣の向かい側の小路にある「いぼ石」は希菴禅師が大円寺から飯羽間へ逃げる際に休憩した石と伝わります。「女城主の墓とも伝わる」とあり、この看板の前後に大きな石があるのでどちらかがそうなのでしょうか…。
(因みに亡くなる前に結婚した武田信玄配下、秋山信友のお墓は恵林寺にあります)
ぽつんとあるので知る人ぞ知る人物とスポットとなっていますが、武田信玄の菩提寺恵林寺(山梨県)の住職、妙心寺(京都)管長職なども務めた凄い人。
女城主にも関わりはあったはず。岩村城と併せて訪ねると一層歴史を肌で感じられるかもしれません。
(因みに大円寺の前は下呂の
禅昌寺の住職でもありました。敷地内の庭はもちろん、拝観料300円で観られる名勝指定の庭園、雪舟筆の達磨像などあり、尚且つそんなに遠くなくみどころ満載でこちらも個人的にとてもオススメ)
希菴橋、希菴塚、大円寺マップ。
(右上のカッコの形のボタンをクリックで別タブが開きます)